るまたんさんのこの書き方には何かもやるものがあるなと思って少し考えてみたのだけど、端的に言うと、フレームワークの設定の仕方にその原因があるのかなと。
国という枠組み(フレームワーク)で見ればそうかもしれないけど、その米国内においても搾取されている人たちはいるわけで、トランプ支持者のひとつの大きな塊はそこよね。これは日本においても当てはまることで、日本だって少なからず搾取している側だけど、その日本国内で搾取されている人びとも少なくなく、そうした人たちこそ積極的に安倍晋三みたいなインチキペテン師を支持してきたわけよね。
搾取され不遇な立場に置かれている人たちがトランプや安倍晋三みたいなのを支持することが合理的な判断なのかと言えば、まったく不合理なんだけど、虐待されている人がしばしば虐待する人に依存してしまうように、それはときに本人の判断ではどうしようもないこともあるものだから、不合理な判断の責任を搾取や虐待をされている当人に求めることは妥当ではないんじゃないかなと。
もっと根源的に搾取している者こそを個別的に非難すべきかなと。
昨日の投稿に関連して、ひとつ書いておきたいことがある。
現に虐待を受けているか過去に虐待を受けていた人が、現に虐待しているか虐待をするような人に自ら近寄って依存してしまう問題、あるいは自らが虐待をする当事者になってしまう問題、これらの問題そのものが虐待であり、また過去に受けた虐待の継続なわけよね。
はたから見れば不合理で愚かな行為をしているように見えるし、実際にそうなのだけど、この依存性の問題(共依存とも言われる)については、個人の努力や意欲でどうにかなる問題ではないので、支援をする人はそのことを理解した上で、専門的な知識と経験に基づいて、被支援者を決して突き放すことなく、被支援者に寄り添って根気強く支援を続けていくということが何よりも大事なことなわけで、「本人の努力が足りない」とか「最後は自分で何とかしないと」とか「まったく反省していない」などと中途半端に関わって途中で突き放すのは最悪の一手。
頂き女子りりちゃんこと渡邊真衣受刑者に関連する合同会社いぬわん解散の弁護士を含む支援者の発表内容や伊藤詩織さんの元弁護士らの言動にもやもやすることのひとつ。
虐待の被害者が、ときに長い年月を経て虐待の加害者になるということは、専門的な意味でその構造や理由を知らないとしてもそれなりに広く認知されていることだと思うのだけど、どうなんだろう。たとえば、子どものときに親から虐待を受けた者が、大人になって自らが親になったとき、子どもに虐待をするという事例。
性的な虐待(性暴力)についても同様で、たとえばジャニー喜多川によって性暴力を受けた被害者の多くがさまざまな意味において同時に加害者であるということは、これまで幾度となく言い続けてきた。その最悪のケースは、性暴力の被害者が第三者に対して性暴力の直接の加害者になるということ。
気をつけなければならないのは、虐待を受けるなどした人や薬物その他の依存症の人の支援にあっては、途中で見放したり突き放したり、ましてや説教をして相手を非難したりするのではなく、どこまでも寄り添って支援を継続していくことが重要であるということ。要支援者が虐待の加害者になったり薬物に手を出したり性暴力の加害者になった場合は、もちろんその責任を負うことになる。支援者はそうならないように努力をするのであって非難するのではない。
したがって、支援者であると同時に非支援者のおこなったことについて法的・社会的・道徳的責任を追求し非難する側に立つということは、本来的にあり得ないあってはならないことであり、もしそのようなことをしてしまう人がいるならば、それは非支援者に対する加虐にもなり得ることなので、絶対に支援になど関わるべきではないのである。
繰り返しになるけれど、支援を必要とする人が犯罪を犯した場合にはその限りにおいて責任を問われるし、被害者がいる場合には被害者に対してはどこまでも加害者なわけだけど、その責任を求めるのは被害者であり、司法であり、場合によっては社会であって、犯罪を犯してしまった人を支援する立場の人ではないということ。